憲法と刑事訴訟法の交錯の中で(実務の事例を中心として)
榎 久 仁 裕
1 はじめに
2 捜査構造論について
3 通信の秘密と令状
4 勾留質問における処置
5 取調目的による身柄拘束
6 勾留請求却下と執行停止決定(無罪推定)
7 令状請求におけるダブルスタンダード
8 外国人被疑者の人権
9 刑事代用施設と拘置所(接見等禁止決定と留置規定)
10 最高法規として憲法が予定する刑事手続(今後、問題が生じる出あろうと思われる事項)
11 終わりに
1 はじめに
刑事訴訟法は理論的にも実務的にも、憲法の理念を前提に解釈され運用するということが多くある。その中で理論と実務の乖離が非常に激しく、実務を運用する実務家は時として、憲法の理念はどういうものなのかという思考を忘れがちになることが多いのではないかと思うことがある。確かに一定の理論的な解釈を厳格に貫くと、実務において支障が生じるという場合もあるが、解釈及び運用の仕方によっては、憲法の理念を基礎に理論と実務の乖離を埋めることができる場合があるのではないかと思われる。被疑者、被告人の権利保障という理念と真実の発見、公判維持、公共の福祉等の理念の調和的な解釈、運用が望まれるところではないかと思われる。
2 捜査構造論について
代表的な学説として大きく2つに分類することができる。糾問的捜査観と弾劾的捜査観である。糾問的捜査観は、旧刑事訴訟法においてとられていた捜査観であるが、捜査の主体を裁判所におき、嫌疑を裁判所が捜査機関から引き継ぐという形をとるものである。訴訟構造的には職権主義という概念に結びつきやすい捜査観である。それに対して弾劾的捜査観は現行刑事訴訟法が採っていると言われる捜査観であり、訴訟構造論的には当事者主義という概念に結びつきやすい捜査観である。
憲法の人権規定を尊重するならばどう解釈するべきか。
憲法には刑事手続に関する規定が31条を筆頭に10か条ある。裁判の公開を含めれば11か条ある。これに各人権規定を含めれば日本における刑事手続はかなりの面で律することができると思われる[1]。
3 通信の秘密と令状
刑事訴訟法においては郵便物又は電信に関する書類で通信事務を扱う官署その他の者が扱うものを差押えすることができるとする(第100条)。これを裏返して解釈すれば捜索は許されないことになる。
捜索は許されないが、差押えは許される事例 携帯電話の記録等[2]
民間会社や官公庁に一定の要件を定めて、開示または提出義務を課すことは憲法違反か[3]。
4 勾留質問における処置
手錠、腰縄をつけたままの勾留質問は如何なる問題となるか。例えば、大量難民の事件においては規模の小さい裁判所では被疑者の逃亡等の問題が大きい。事例的には少ないが、発生した時の事件処理が難しい場合がある。憲法31条の法定手続の保障は実務的には何を要求しているのか。
任意性のある供述とは被疑者の環境にも配慮された状況での供述と考えている。
憲法が予定している被疑者の環境[4]とは如何なるものかを考えざるを得ない。
5 取調べ目的による身柄拘束
取調目的の身柄拘束は許されるのか。捜査観からの違い。[5]
憲法は司法的抑制とともに法定手続を定めていると考えるならば、糾問的捜査観及び被疑者を取調目的による拘束することは許されないのではなかろうか。
6 勾留請求却下と執行停止決定(無罪推定)
検察官による勾留請求が却下されると検察官は準抗告を申し立てる。この場合に被疑者の身柄を拘束しておく根拠が刑事訴訟法または刑事訴訟規則にない。そこで検察官は勾留請求却下の裁判の執行停止を求めてくる。しかしこの請求にも直接的な条文の根拠がない。実務的な請求ではあるが、この執行停止が憲法の理念に適合しているのかが問題となると思われる。
被疑者の利益とは何なのか。
執行停止というものを認めないならば準抗告によって勾留決定されたと
してもその決定がなされるまでは自由な身になることができるが、それ
は時間的には数時間である。逆に捜査機関側からは被疑者に逃亡の機会
を与えるものになるとする。従って実務的には執行停止という概念を肯
定している。
刑事訴訟法、刑事規則等に根拠のない身柄拘束は憲法違反か。
7 令状発付におけるダブルスタンダード
ある宗教団体の事件
ある宗教団体の犯罪行為が全国的に問題となり、メディアなどによって特に報道等された事件である。この事件に関して令状発付がだぶるスタンダードになってはいないかということが問題となった。すなわちこの事件に関しての令状を裁判所は他の事件の令状よりも基準を低くして発付を認めているという指摘があった。
裁判所が採った手続
当時、裁判所において令状実務に携わっていた者から言えば、まったくそのような事実はなく、反対にそう言ったことにならならいように配慮した[6]。
手続にダブルスタンダードがあったならば法の下の平等に反しないか。[7]
8 外国人被疑者の人権
(1)通訳人(黙秘権の告知等)
裁判所においては通訳人名簿を作成し、その名簿から通訳人を選任し
ているが、それでも通訳人の確保が難しい。特に希少言語[8]などについて
は通訳人の確保が非常に困難であることが現状である。また被疑者の勾
留質問においては時間的制約があり、通訳人の確保がより難しくなる[9]。
(2)勾留通知
実務的には効果のない勾留通知はしないということになっている。外国への勾留通知をしても弁護人を付したり、糧食等の差し入れはできないので外国への勾留通知は不要と解しているようである。また、その宛先が国内と比べて確認ができないという理由もあるようである。
(3)食事と信教の自由
イスラム教は豚肉を食することを禁じているところ警察署の留置係が豚肉を牛肉だと偽ってイスラム教徒である被疑者に食べさせた。[10]
9 刑事代用施設と拘置所(接見等禁止決定と留置規定)
(1)拘置所より警察の留置所の方が良いとする頻回被疑者の存在
交通の便が良い。食事が良い。
(2)接見等禁止決定によっても糧食等の差し入れを禁止してはいけない。
しかし警察署の留置規定または管理権限として、糧食をも制限している現状がある[11]。
10最高法規として憲法が予定する刑事手続[12](今後、問題が生じるであろうと思われる事項)
冤罪 強制自白 詐術による自白 徒な身柄拘束(余罪捜査)
終わりに
刑事公判手続において自白事件で、国選弁護人というパターンは、公判廷が弛緩しているような感がある。著名な事件では相当な緊張感があるが、多くの刑事の公判は事務的で、かつ弁護人は情状の立証にも努力していないようなケースがある[15]。憲法が要請している刑事の公判廷は如何なるものであろうかと再構築する必要性を感じている。
つまり今回の法改正で重大事件につき、裁判員制度等を採用しているようであるが、重大でない事件を優先的に改革するべきではなかったか[16]という実務的な考えもあるようである。
[1] 被告人に弁護人選任権があるということは検察官の起訴に対して攻撃、防御権が認められているということができ、公判が当事者主義的に維持されるという解釈ができ、その意味から捜査の段階でも弾劾的捜査観を想定するべきであるという解釈が導き出されると思われる。
[2] 近年の犯罪等においては携帯電話の発信、受信記録から被疑者を絞り込むことが多いと言われる。
[3] 数は少ないが差押えのための提出を拒む民間会社がある。つまり拒まれると差押えはできず、捜査に支障を来すことがある。
[4] 疑わしきは罰せずという原則を堅持するにはどうあるべきかという問題である。
[5] 糾問的捜査観からは取調目的による身柄拘束は許されるとし弾劾的捜査観からは許されないという帰結になる。
[6] 当該宗教団体の信者に対する総本部と称するところからの差入許可の申立てがあった事案の処理について、他事件とは変わらない処理をした。
[7] 社会的要請により令状発付の基準が異なることが許されるのか。換言すれば事件の難易度または実社会において国民が明白かつ現在の危険、不安感を抱いているとされる場合にある程度の捜査機関に裁量を与えた令状を発付することは許されるのかが問題となると思われる。
[8] 例えばペルシャ語やアラビア語など。
[9] これによって黙秘権の告知を受ける権利や弁解の機会が被疑者から奪われる。
[10] 信教の自由を侵害したとして憲法違反を理由に国家賠償できるのかが問題となると思われる。また外国人にも身柄を拘束された中で信教の自由が保障されているのかも考慮される必要があると思われる。
[11] 勾留決定とともに発する接見等禁止決定においても法の規定により糧食の差し入れの禁止はできない(刑事訴訟法第81条)。また『憲法的刑事手続』291頁(日本評論社、1997年)は「接見交通権は憲法第34条の外部交通権の本質的内容をなすものであり、憲法上の権利であるから施設管理権という下位規定に基づく権限によって制約を受けるものではない」と指摘している。
[12] 実務的感覚から言えば、公判においては当事者主義は浸透していると思われるが、捜査段階では弾劾的捜査観は浸透していない感がある。例えば、勾留通知という制度はあるものの、勾留延長決定に対する被疑者側への通知制度がないという点でも被疑者の防御権の軽視と言わざるを得ないと思われる。
[13] 思想・良心の自由に関して問題が生じると思われる。
[14] 資力のない被告人が多く債務名義を取得むしても意義があるのかという問題があると思われる。
[15] 被告人の家族や親族を捜したり、説得したりして情状証人として法廷で証言させるということすら放棄している弁護人がいることも事実である。
[16] 重大事件でなければ市民は自由闊達な審理、判断ができるのであり、そこから裁判への市民参加を浸透させるという方法があったのではないかと思われる。